初代スバルレガシィの誕生秘話
2023年3月、日本国内での販売を終了したスバル初代レガシィ。実に多くの自動車ファンに愛されてきたこの名車が、どのようにして誕生したのか、そしてその背後にある開発者の思いとは何か。12月6日放送の「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!」に登場するのは、レガシィの開発を担当した元スバルエンジニアの辰己英治さんです。
スバルの挑戦
1989年に発表されたレガシィは、当時の3代目レオーネの後継として登場しました。スバルにとってのフラグシップモデルとして、国際的な評価を得ることになります。しかし、その背景には多くの苦難がありました。当時のスバルは、バブル経済の波に乗れず、苦しい状況に直面していたのです。辰己さんは「社内でスバルにバブルはないと言っていた」と振り返ります。そんな厳しい環境下で、自社の未来を切り開くために、開発チームはアンバランスな挑戦をする決意を固めました。
安全と安心の追求
辰己さんが心掛けたのは「安全、安心のためには走りを極める」という信念でした。この信念を基に、彼は徹底した走り込みを行い、クルマの実力を見極めるために100万キロもの走行を重ねました。その数値にもおぎやはぎは驚きつつ、彼の情熱と信念を払拭することはできませんでした。これほどの努力が、後のレガシィの高い評価を生むことに繋がりました。
天文学的な開発費用
辰己さんが語るレガシィの開発には、天文学的な費用が投じられたそうです。製品改良に関する全ての要素を一新するための大胆な決断は、経営陣の強い信頼があってこそ可能となったのかもしれません。辰己さん自身も、開発の過程でレオーネとの乗り比べを通して、レガシィが持つ独自の魅力を確信したと語ります。
開発者の情熱
辰己さんはオフロードレースのチャンピオンでもありますが、そのキャリアは開発にも大きく影響を与えました。高級欧州車のテスト走行を通じて、独自の洞察も得ました。「欧州車は何十歩も先を行っている」と感じた彼は、追いつき追い越す熱意を持ち続けました。しっかりとした実走行データに基づく開発は、レガシィの特長ともなり、多くの支持を集める結果となりました。
愛された名車の終焉
今年3月、惜しまれつつもレガシィは日本での販売を終えました。おぎやはぎの小木博明さんも「これは寂しい」と本音を吐露します。それでも、レガシィは日本自動車殿堂にて歴史的な名車として認定され、その功績に幕を閉じました。辰己さんは、手塩にかけて育てた愛車に対する思いを語り、彼の中でレガシィは永遠の存在として生き続けることでしょう。
次回の「おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!」では、この名車と開発者の情熱に触れつつ、さらに深いところまで迫る内容を紹介します。ぜひご覧ください!